何年にも渡る運転免許返納交渉。決めたのは一瞬でした

番号 132

# 介護録

# 大切な家族へ

「まだまだ運転できる」が口ぐせでした。

親戚のおじさんのです。

72歳のおじさんは、とにかく車が大好きでした。

休日になると朝から洗車。

ボディを磨いて、タイヤに艶を出し、少し離れて眺めながら満足そうに笑う。

その姿は、車というより長年連れ添った相棒を見つめているようでした。

そんな父を見て、一人娘さんは何年も言い続けていました。

「お父さん、そろそろ免許返納も考えない?」

すると返事は毎回同じです。

「まだ事故なんか起こさん。」

「目も悪くない。」

「危ないのはスマホ見ながら運転してる若い人だ。」

娘さんも負けません。

「でも、お父さんも72歳だよ。」

すると父は笑いながら、

「72歳なんて、まだ若手だ。」

最後は決まって、

「俺からハンドルを取り上げたいのか?」

その一言で話は終わり。

心配する娘。

聞く耳を持たない父。

そんなやり取りが何年も続いていたそうです。

ある日、おじさんが新聞を見ながら言いました。

「来月、車検なんだ。」

娘さんは心の中で思いました。

「あと2年は乗る気なんだ……。」

それでも、

「じゃあ、一緒に行こうか。」

そう答えたそうです。

父が固まった、たった一枚の紙

車屋さんへ着くと、おじさんは終始ご機嫌でした。

「この車は丈夫だからな。」

「まだまだ現役だ。」

娘さんは心の中で、

(今日も返納の話は無理だな。)

と半分あきらめていました。

しばらくすると店員さんが、

「少々お待ちください。」

と言って奥へ入っていきます。

数分後。

店員さんは一枚の紙を持って戻ってきました。

おじさんはその紙を見るなり、

眼鏡を外し、

もう一度見る。

眼鏡をかけ直して、

また見る。

紙を見る。

店員さんを見る。

また紙を見る。

完全に固まっています。

娘さんが、

「どうしたの?」

と聞いても返事がありません。

数秒後。

さっきまで

「あと20年乗る。」

と言っていた父が、突然店員さんに聞きました。

「印鑑って……今日でも間に合います?」

娘さんは思わず、

「えっ!?」

店員さんまで笑いをこらえています。

あとで分かったことですが、その紙は車の査定額でした。

大切に乗り続けていた車は人気モデルだったこともあり、思っていた以上の価値が付いていたのです。

もちろん、すべての車が高く売れるわけではありません。

でも、おじさんにとっては、その査定額が長年動かなかった気持ちを動かすきっかけになったそうです。

人は、納得すると前を向ける。

車を手放して数か月後。

娘さんがお父さんに聞きました。

「車がなくなって、不便じゃない?」

おじさんは少し考えて笑いました。

「……思ったほど困らんな。」

スーパーは歩いて行ける。

病院は送迎サービスを利用する。

少し遠くへ行く時はタクシーや娘さんに頼む。

最初は、

「車がない生活なんて考えられん。」

と言っていた父でしたが、暮らしてみると意外と何とかなったそうです。

それどころか、

「ガソリン代もいらん。」

「車検代もない。」

「自動車税もない。」

「保険料もない。」

「こんなに維持費がかかってたんだな。」

と笑うようになりました。

実は、自主返納する人の多くは、「運転できなくなってから」ではなく、「まだ運転できるうち」に決断しています。

内閣府の調査では、自主返納した人の約8割が74歳以下でした。

さらに警察庁の統計でも、自主返納する人は年々増えており、「元気なうちに自分で区切りをつける」という考え方が少しずつ広がっています。

帰り道、おじさんは娘さんにこう言ったそうです。

「俺は免許を返したんじゃない。」

「気持ちよく卒業したんだ。」

その言葉を聞いて、娘さんはようやく安心できたそうです。

何年にも渡る運転免許返納交渉。

決めたのは、ほんの一瞬でした。

でも、その一瞬が訪れたのは、

娘さんが何年も諦めず、お父さんを責めるのではなく、寄り添い続けた時間があったから。

親の気持ちは、正論だけでは動きません。

だからこそ、焦らず、対立せず、一緒に納得できるタイミングを探すこと。

それが、親子にとって一番後悔の少ない免許返納なのかもしれません。

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